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3割の「大企業型」の働き方が日本社会を規定している

「大企業型」「地元型」「残余型」という働き方の3類型

[小熊英二]社会学者、慶應義塾大学総合政策学部 教授

著書『日本社会のしくみ』では、雇用の慣行に焦点を当て、大企業や官庁に勤める人の就労モデルが教育や社会保障の大きな規定要因になっていることを論じました。

働き方は「大企業型」「地元型」「残余型」に大別できる

日本の社会における働き方は、「大企業型」「地元型」「残余型」という3つの類型に大別できると思います。

大企業型は大学を出て大企業や官庁に勤め、「正社員・終身雇用」の人生を過ごす人たちとその家族を指します。収入はそれなりの額を安定して得られるけれども、進学や就職で生まれ育った地域を離れることが多く、また転勤もあることが多いので、地域との結びつきを養いにくいというデメリットがあります。従って、育児で頼れる人がいないとか、定年後の生き方に迷うといった困難に直面しやすく、ローンで家を買うなど支出も多いと見られます。

地元型は地元の中学や高校を卒業後、農業や自営業、地方公務員、建設業などその地域にある職業に就くタイプです。収入は大企業型より少ないことが多いけれども、親から土地や持ち家を譲られる、地域の人間関係に恵まれる、地域で存在感を発揮できる、自営業や農業は定年がない、といったメリットがあります。

大企業型は「カイシャ(職域)」を通じたソーシャルキャピタルを持ち、地元型は「ムラ(地域)」を通じたソーシャルキャピタルを持っていると言い換えることができます。両者は見ている世界が違うし、不満の持ち方も違うわけです。

もう1つの残余型は、長期雇用されておらず、しかも地元に足場があるわけでもない人々です。都市部の非正規労働者がその象徴ですが、新卒で一度は正社員になったものの、何らかの事情で職を転々とする人などもここに含まれます。必ずしも一概にはいえませんが、平均的にみれば恐らく所得は低く、企業にも地域にも足場がなく、高齢になっても持ち家がなく、年金は少ないという人々が多いでしょう。大企業型と地元型のマイナス面を集めたようなタイプといえます。


「慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス 小熊英二研究会」のウェブサイト。
https://oguma.sfc.keio.ac.jp/

大企業型を前提とした制度が時流に合わなくなっている

3つの類型の比率は、さまざまなデータから、大企業型が26パーセント、地元型が36パーセント、残余型が38パーセントと推定しています。大企業型が少ないと思われるかもしれませんけど、正社員になって終身雇用を実現できる生き方をした男性は1950年生まれでも34パーセント、1980年生まれでは27パーセントに過ぎないと見られます。昭和の時代でも3割に過ぎないわけです。

ですから満員電車で通勤するのが苦痛だとか、保育園不足に悩んでいるといった不満は、実は全就労者の3割程度が感じているに過ぎないと見ることができます。

もちろん比率が小さいからといって、そうした課題を軽んじていいわけではないけれども、3割の人の悩みがあたかも日本全体の課題のようにとらえられ、残り7割のあり方を結果的に規定してしまうことには注意が必要だということです。年金制度や健康保険制度など、会社員・公務員と自営業者・非正規雇用者の社会保障の違いをめぐる不公平感も、このアンバランスさに根差していると考えられます。

いま、日本の社会では残余型が増えています。正社員の数はそれほど減少していないけれども、地元型に多い自営業の人が事業を継続できなくなって非正規雇用に転じるケースが増えているんです。会社にも地域にもつながりを持たないこのタイプが増えているのは、大企業型を前提とした過去の制度が社会の変化に合わなくなっているということの証左ではないかと思います。


小熊氏の著書『日本社会のしくみ――雇用・教育・福祉の歴史社会学』(講談社現代新書)。日本の働き方がどのように成立してきたかを、データを元にひも解いている。

「能力」によって全社員を査定し、
「資格」を与える職能資格制度が企業に浸透

大企業の働き方が始まったのは明治期であると考えられます。

明治期の官庁制度では、棒給(給与)は成果や職務でなく、学歴と勤続年数によって決まりました。この官庁の「任官補職」* の原則と、軍隊型の階級制度が、明治期の日本企業に広まっていったんです。

戦前の企業には「大卒の上級職員」「高卒の下級職員」「中卒の現場労働者」という三層構造があり、現場労働者には年功制や長期雇用は適用されていませんでした。これは学歴による身分差別だと受け止められていました。

戦後の民主化の中で「社員の平等」への道が開かれ、労働運動は年齢と家族の人数に応じた生活給のルールを確立していきます。長期雇用も定着していったため、企業は採用を慎重化すべく、学校から情報が得られる新卒一括採用を現場労働者レベルまで拡張しました。こうして企業の三層構造は解消され、従業員全員が「社員」となります。このタイミングで導入されたのが「能力」によって全社員を査定し、「資格」を付与する職能資格制度だったわけですが、この制度に官庁や軍隊の階級制度の名残が見て取れます。

職能資格制度というのは、いってみれば職務とは別に作用するランキングシステムなんですね。軍隊でいえば、少佐というのは例えば大隊長になることもあれば、補給基地の司令官になることもあるし、航空隊の司令官になることもあるわけだけれども、そんなふうに職務が変わっても少佐という階級=ランクは変わりません。

同じように日本の企業でも、例えば「参事」「理事」「主事」だといった資格がランク機能を持ちました。「部長」や「課長」も、そういう側面があったかもしれません。仕事の内容や求められる専門性とは違ったところでランク付けされるわけで、そんなところも企業が軍隊や官庁のシステムを踏襲していることの裏付けになると思います。

出向・非正規・女性・高齢者などの「社員の平等」の外部が生まれる

1950年代半ばから、官吏の恩給を起源として社会保障制度も固められていきました。大企業から長期雇用と年功賃金が広がり、中堅以上の企業で働く人はカイシャ(職域)、それ以外の人はムラ(地域)を基本単位とする制度が作られていった。すなわち日本の社会保障はまず大企業従業員をカバーする制度からでき始め、大企業以外のところをカバーする制度が後からできたというわけです。

1960年代ごろから現行の年金や健康保険などの社会保障が全国に拡大し、働き手のあり方が大企業型、地元型、残余型とに大きく類型化されていくことになります。

「日本型雇用」が完成したのは高度成長期以後のことです。大企業の正社員の量的拡大は1974年のオイルショックを契機にほぼ止まり、増えなくなったパイの奪い合いが受験競争の激化となって表れました。一方、企業は年功賃金や終身雇用がもたらす負荷に苦しんだ末、人事考課を厳格化しつつ、出向・非正規・女性・高齢者などの「社員の平等」の外部を作り出していきます。

1980年代に正社員と非正規雇用の二重構造が注目され始め、1990年代以降、日本型雇用の改革や成果主義の導入が唱えられたものの、基本的な慣行は変わらず、コア部分ではいまも大企業型の雇用をベースとした仕組みが維持されている――というのが、日本型雇用の生成から現在までの大まかな流れです。

モノづくりの時代においては日本型雇用はうまく効いた

明治期からこの令和の時代に至るまで、大企業の雇用制度が革新されなかった理由としては、1つは、それでやれてきてしまったということがあるんでしょうね。

軍隊という組織の構造を知る人々が、労働運動を通して将校だけに適応されていた年功賃金や長期雇用という待遇を持ち込んだんです。それは働き手にとっては好待遇なんですよ。しかも、一般労働者にまで適応されたわけです。戦後の企業では全員が将校になれる可能性が開けたようなものです。

それによって現場労働者の士気が上がりましたし、長期雇用されることで技能蓄積が進みましたから、モノづくりの時代においては年功賃金や長期雇用といった日本型モデルはよく効いたといえます。

その成果は意図して生み出したものではなく、あくまで結果としてそう働いたというだけのことなんですが、ともあれ日本型雇用がうまく機能したことが、このモデルが長期的に維持されることになった1つの要因であると考えられます。

国際的に見ると日本は低学歴化している

もう1つ大きな要因は、人材の採用を国内市場だけで進めてこられたからだと思います。日本はモノの輸出入も国際的にみれば比率が低い方ですが、労働市場はもっと閉鎖的です。国内の高校や大学の卒業生を新卒で入社させる形で、人材を調達し続けることができた。他国の人材と交流する必要も全く感じていなかったでしょう。

それは日本が大きな国だったからできたことだと思います。日本はよく小さい国だといわれますけど、世界的に見れば実は大きな国です。人口は1億3000万人もいて、外交力もそれなりにあって、教育を受けた人材がたくさんあるという意味で、消費市場としても、労働市場としても規模が大きい。EUの約半分くらいを一国で稼いでいるわけで、だから閉鎖的でも人材が調達できたんです。

ただ、日本の教育程度が高い間はそれでよかったけれども、いまは状況が変わっています。現在、他の国でそれなりのレベルの職に就こうとするなら、大学院に進学して修士号や博士号を取らないと難しい。そういうわけで、アメリカもヨーロッパもアジア圏も中南米もアフリカも、みんな学歴がどんどん上がっています。日本は相対的に見ると低学歴化しているので、それは日本の1つの課題といえるかもしれません。

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(2019.9.17 小熊氏の自宅にて取材)

text: Yoshie Kaneko
photo: Kazuhiro Shiraishi

* 任官補職
まず「官」(地位)に任ぜられ、その後「職」(職務内容)が与えられるという人事制度。例えば、事務官を任じられてから課長補佐のポストに就くという形で、棒給は職務内容でなく事務官であることで決まる。

小熊英二(おぐま・えいじ)

1962年東京生まれ。東京大学農学部卒。出版社勤務を経て、東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。現在、慶應義塾大学総合政策学部教授。学術博士。主な著書に『単一民族神話の起源』(サントリー学芸賞)、『<民主>と<愛国>』(大佛次郎論壇賞、毎日出版文化賞、日本社会学会奨励賞)、『1968』(角川財団学芸賞)、『社会を変えるには』(新書大賞)、『生きて帰ってきた男』(小林秀雄賞)、A Genealogy of ‘Japanese’ Self-Imagesなど。

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