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「縁食空間」は想像力を養う未知との遭遇の場

運営主体を多様化し、縁食のエコシステム形成へ

[藤原辰史]京都大学人文科学研究所 准教授

前回、食べ物を通じて人と人を結ぶ「縁食(えんしょく)」について話しました。人間関係が希薄化している昨今ですが、縁食の機会を増やすことで、ゆるやかにつながりを取り戻すことができるのではないかと私は考えています。

必要のない情報が紛れ込んでくることが当たり前だった

ことにデジタル化が進む現代では、プラットフォーマーによって情報が選別され、自分が見たいと思う情報ばかりが多く集まる傾向が強まっています。言い換えれば、認めたくない現実だとか自分が不快に思う出来事から、容易に目を背けることができるようになっているのです。

「デジタル社会」とは「検索社会」と同じ意味ではないでしょうか。グーグルの検索画面に人物名や言葉を入れたら、ウィキペディアの該当ページが出てきて、概要がすぐにつかめる。非常に便利なんですけど、その反面、何か重要なものをすっ飛ばしている気がします。

以前は、何か調べたいことがあれば図書館に行ったり、手元の事典や辞書を引いたりしましたよね。例えば、私がかつて愛用していた『西洋人名辞典』でジェンナー(医学者)を調べると、その隣に同じく「シェ」で始まるシェーンベルク(音楽家)が出てくる。これが大事だと思うんですよ。必要のない情報が一緒に紛れ込んでくることが当たり前だったのに、いまは調べたもの以外は排除できるシステムができている。これは検索社会の悪い面だと思います。

ニュース配信サイトでも、上位に表示されるものは必ずしも重要な情報でない場合が多い。それを見て私たちはニュースを知ったつもりになってしまうけれども、目にする情報は偏って、全体への目配せは衰えているような気がします。

想定外のことに驚くような体験がないと生き方が鈍る

検索社会の真逆を行くのが縁食空間だと思うんです。

この検索社会では今後、自分たちが会う必要もない人、関心や興味の対象がまるで違うような人と会わないで済ませられるようになるかもしれません。ある一定のサークルの中で、ある一定の条件を満たしてマッチング化していくようなイメージですね。

こういう合理性の追求が、情報についても波及していくのではないか。本来知らなくてよかった、見たくもなかった現実が入ってこなくなって、自己愛に満ちた幸せで美しい時間が過ごせると思うんです。

だけど、そういう世界は豊かではないんですよね。自分が見たくない現実や、本来会わなくてもよかったような人とのすれ違い、もしくは出会い、遭遇があることで心が動かされる。自分もびっくりするような体験って、やっぱり単純に楽しい。そういう瞬間がないと生き方が鈍くなってくるような気がします。

アメリカでは壁を建てて外部と隔絶した中で生活するゲーテッドコミュニティ(Gated community)が出現していますし、そこまで行かなくても、狭い個人サークルの友達関係やその延長でしか世の中を見ないということになれば、本当につまらないと思うんですよ。やがては人に関心がなくなって自家中毒に陥ってしまうでしょう。

未知との遭遇から想像力やアイデアが生まれてくる

私はあちこちの研究会や講演会で話をするんですが、質疑応答でとんでもない質問をされたり、あるいは自分でもショックを受けるような批判を受けたりします。それこそ見たくもない現実を突き付けられることもある。

例えば、給食が大事だと話した後に、給食の調理士さんから批判されたことがありました。いわく、「あなたは給食の重要性を説くけれども、調理士が自分の作った給食をお金を払って食べているのを知っているか。知らないだろう」と。確かに私はそれを知らなかったんです。

そういう怒りを検索で得ることはできません。でも私は、そこで現実を突き付けられたことで、給食について理解をさらに深めることができたし、さらにそれを別の方に伝えることができるようになって、調理士の皆さんとより話しやすくなりました。その方の批判が大きな価値をもたらしてくれたのです。

不特定多数の方と出会えるかもしれない、未知との遭遇の場所を保っておくこと。それは想像力やアイデアとかを生み出していく上で大変重要な仕掛けだと思いますが、それがまさに縁食とつながってくると思います。縁食の場は、性別、年齢、社会的地位などを問わず、誰でもふらっと立ち寄ってご飯が食べられる、そういう空間ですから。

縁食の場はまた、食べられない、食べることがつらい、友達がいないといったある種の負の感情を抱いた人たちもやってくるので、社会の不満や家族の暗部が吐露されることもあるでしょう。しかし、不満が集まるということは、その社会の弱点を可視化しやすくなるということなので悪いことではありません。社会の暗部を発見するための、これほど便利な仕組みはないと思います。

(トップ写真:NeONBRAND on Unsplash)


藤原氏のウェブサイト「藤原辰史の研究室」。専門は歴史学、特に農業史と環境史。戦争、技術、飢餓、ナチズム、給食などを中心に、食と農業の歴史や思想について研究している。
http://www.zinbun.kyoto-u.ac.jp/~fujihara/index.html


藤原氏。取材はオンラインで行った。

縁食という空間は統制されてはいけない。
公と民による多様な形があっていい

コロナ禍が落ち着いたら縁食の場が広がっていくことが期待されるわけですが、そのときにそれを誰が担うのか。公的なセクターか、それとも民間かということは議論の余地があります。ここは私としても悩んでいるところです。

議論の手がかりをいくつか挙げるとするならば、1つは、縁食という空間は統制されてはいけないということ。もちろん、例えば地方自治体のような公的セクターが縁食空間を横から支えることは十分に考えられますし、実際いままでも子ども食堂に対する援助がなされています。そういう意味で、横から支えるだけにとどめて統制はしないというパターンは1つのあり方といえるでしょう。

それから、民といってもいろいろな民がありますよね。いまの子ども食堂は近所のお母さんたちがボランティアで運営するパターンが多いんですけど、そのボランティアを支えているのは地域の人々だったりする。半分プライベートで半分フォーマルという集いの場としての縁食空間も増えていくと思われます。

一方で、もっとプライベートな事例もあります。夫がいなくなったり退職したりして、自由な時間が増えた、なおかつ人に料理を振る舞うのが好きというおばあちゃんが台所を開放している例もあります。そういう方から「あなたが書いた縁食そのものがここにあります」と手紙をいただいたこともあるのですが、プライベートが7割で、3割はオープンといったパターンも今後増えてくると思います。

運営の主体も形態も多様化して、縁食の場をエコロジカルに

フォーマルなセクターも縁食の担い手になれます。

企業の場合は、社員食堂の開放ですね。機密の漏洩を防ぐとか、社員の福祉に寄与するためといった理由で、社食の利用は社員に限定する企業が多いですが、そこをあえて外部の人にも開放すれば社会的な貢献になるでしょう。「ここの社食はうまい」と評判が立ったらブランディングにもなりますよね。

パターンとしてはさらに、地方自治体や国が運営する公営食堂も考えられます。実際、1920年代には労働者や低所得者に安価で食事を提供する公営食堂が東京や大阪にあって、それなりに繁盛していました。いろいろなおかずが並んでいて、社食のように好きなものを取って最後清算する形です。

運営の主体も形態も多様化することで、縁食の場をエコロジカルにするのがいいでしょうね。いろいろな種類の縁食が存在している方が健全だと思います。

「弱目的性」を持った人々が集える場所は公益に資する

いずれにせよ、縁食空間の運営・維持をボランティアだけで行うのは限界があります。社会の矛盾をボランティアが尻拭いしているという批判もあって、私はそれは当たっていると思います。社会の福祉がもっとしっかりしていれば、子ども食堂なんてそもそも必要ないわけですし。

子ども食堂に関して言えば、お腹を空かせた子どもだけでなく、「ただ集まりたい」「友達に会いたい」「子ども食堂にあるマンガを読みたい」「お手伝いが楽しい」と言ってやってくる子がいるのも事実です。

人に説明するほどでもない細かい理由、すなわち「弱目的性」を持った人々が集える場所が存在していること。それはやっぱり公的なことだと思うので、税金で援助したり、あるいは地域の人々が支援したりすることは決しておかしくないと思います。

縁食に限らず、これからの時代は自治体の存在感が増すと思うんですね。特に日本の場合、国会で全てを決めるような中央集権型の公助では持たないでしょう。積極的な首長さんが出てきて、「お金は何とかしますから、ボランティアの皆さんがやりたいようにやって」となったら世の中が変わるはず。自治体によって公助の個性や特徴を打ち出すのも面白いでしょう。

お祭りと縁食を拠点として何か世直しできないか

今後の研究テーマの1つがお祭りなんですけど、これも縁食と関係があると思っています。

もともと私はナチスを研究していたんですが、ファシズムは祭りを大事にするんです。例えば収穫感謝祭は、農民は大事だというスローガンを掲げた、100万人規模の国家行事でした。農民を大事にするというプロパガンダだけではなく、それだけの人を集める国家の威容を見せつける意図もあったわけです。そういう狙いで各地でもファシズム化した祭りが催されました。

一方で、祭りは縁食と同じように地域の集いの場所を確認し合う、不思議な力を持っています。盆踊りはこの文脈の上に成立しているものです。

ファシズム的な意味でも地域のつながりを確認する意味でも、共同体が成り立つ上でお祭りは欠かせないものだったわけですが、現代では祝祭がレジャーに変わってきてしまっている。毎日が祝祭、毎日が回転ずしみたいな感覚ですよね。そうやって本来的な意味の祝祭が消えたことで、何か私たちが失ってきたものがあるのではないかと思うんです。逆に言うと、お祭りと縁食を拠点として何か世直しできないかなとも思ったりする。

最近はお祭りの会場にテキ屋さんだけでなく、ワゴンで出店する個人経営の飲食店やカフェもあったりします。いろんな人が食事を持ち寄って、みんなでそれをおいしく食べるという点も、まさに縁食的。そういうことをファシズムではない道として考えてみたいなというのが、次の課題ですね。

WEB限定コンテンツ
(2021.2.12 オンラインにて取材)

text: Yoshie Kaneko

(イメージ写真:NeONBRAND on Unsplash)

藤原氏の著作には、『ナチス・ドイツの有機農業』や『ナチスのキッチン』などもある。

藤原辰史(ふじはら・たつし)

1976年北海道旭川市生まれ、島根県奥出雲町出身。2002年京都大学大学院人間・環境学研究科博士後期課程中途退学。博士(人間・環境学)。東京大学大学院農学生命科学研究科講師などを経て、2013年より京都大学人文科学研究所准教授。専門は農業史・環境史。著書に、『ナチス・ドイツの有機農業』(柏書房)、『カブラの冬』(人文書院)、『ナチスのキッチン』(水声社/決定版:共和国)、『稲の大東亜共栄圏』(吉川弘文館)、『食べること考えること』(共和国)、『トラクターの世界史』(中公新書)、『戦争と農業』(集英社インターナショナル新書)、『給食の歴史』(岩波新書)、『食べるとはどういうことか』(農山漁村文化協会)、『分解の哲学』(青土社)、『縁食論』(ミシマ社)、『農の原理の史的研究』(創元社)など。

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