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投資顧問会社のファンドマネジャーを翻訳家にした1冊の本

原書を読んで抱いたイメージと同じものを読者に提供したい

[関美和]翻訳家、杏林大学外国語学部准教授

翻訳家になる前は投資顧問会社でファンドマネジャーとして働いていて、海外の大学でMBAも取得しました。ハードなビジネスの世界に身を置いていたわけですが、そこから翻訳家へ転身したのは、アリソン・ピアソン(Allison Pearson)の『I Don’t Know How She Does It』* という小説に出合ったことがきっかけです。

主人公はグローバル展開する投資顧問会社でファンドマネジャーを務める35歳の女性です。2人の子育てを巡るドタバタ、夫との軋轢、多忙でストレスの多い仕事を続けることの迷いや葛藤などが、軽妙なタッチで描かれているのですが、それがまるで我がことのようなんですよ。仕事内容もポジションも私と同じで、年齢もほぼ一緒。日々のてんやわんやもそっくりで、作者はどこかで私のことを見ていたのかと思うくらい(笑)。面白くて一気に読み終えました。

それまでも英語の本はたくさん読んでいたけれども、この本は別格でしたね。物語の世界にのめり込んだ挙句、この本をどうしても訳したいという欲望が湧いたんです。思えばそれが翻訳魂に火がついた瞬間だったのかもしれません。

そこで著者にメールして訳させてほしいと直談判したのですが、日本語訳の版権はすでに売ったとのこと。出版社に問い合わせると翻訳も終わっていて、結局『I Don’t Know~』を訳したいという私の野望ははかなく潰えました(笑)。

翻訳に携わりたい一心で出版社へ売り込み

でも気持ち的には翻訳をしたいというモードのままで、こうなったら他の本でもいいので翻訳に携わりたいと、出版社や版権エージェントにプロフィールを送って売り込みをかけました。運よくいくつかの会社から声をかけていただいて、出版候補となっている本を読んで要約するリーディングという作業をさせてもらうことになりました。

リーディングを何冊か続けるうちに、その中の1冊を翻訳させてもらえることになったんです。それが私の翻訳家としてのデビュー作『スターバックスを世界一にするために守り続けてきた大切な原則』** となりました。

リーディング作業を続けていたころ、2007年に投資顧問会社は辞めました。このころはまだ翻訳を仕事にするつもりはなかったし、先行きがどうなるかもわからなかったけれども、少しお休みをいただこうかなと思ったんですね。

自分はファンドマネジャーとしても金融人としてもヘボで、ただ業界の中で生き残っているだけという自覚がありました。それほど高いモチベーションを抱いていたわけではなかったので、金融業界を離れることに躊躇はありませんでした。結果的に翻訳に専念できる時間が得られたのは幸いで、ありがたいことにその後もコンスタントに依頼をいただき、今に至っているというわけです。

翻訳者は実務経験よりも翻訳のスキルの方が重要

MBAを取得したことやファンドマネジャーの経験が翻訳にどの程度生きているかと聞かれれば、まあゼロではないでしょう。

金融や経済学、マネジメント、リーダーシップといった分野のことなら、ある程度想像がつきますから、発注者の側からすると多少の安心感につながるかもしれませんし、それだけ翻訳作業も早く進められるかもしれない。最初のチャンスをいただくには、過去の経歴が役立つこともあるでしょう。

ただし、実務経験がなくても優れた翻訳者は多くいることも事実です。そう考えると、ビジネスの経験とその分野の翻訳における優位性はあまり関係ないと思います。

例えば日本語で書かれた本なら、あまり詳しくない分野のものでも、それなりに理解できますよね。同じように、英語の習熟度が高ければ、自分の専門分野でなくても普通に理解できるはずです。そういう意味で、翻訳者は実務経験よりも翻訳のスキルの方が重要だと感じています。

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杏林大学は1966年創立、1970年に大学設置の私立大学。キャンパスは三鷹、井の頭、八王子の3か所。外国語学部は英語学科、中国語学科、観光交流文化学科で構成されている。
http://www.kyorin-u.ac.jp/

* 2003年刊行。邦訳は『ケイト・レディは負け犬じゃない』(ソニーマガジンズ、2004年刊)。
原書は欧米でヒットし、2011年にはサラ・ジェシカ・パーカー主演で映画化された。日本でも『ケイト・レディが完璧(パーフェクト)な理由(ワケ)』というタイトルで劇場公開されている。

** ハワード・ビーハー、ジャネット・ゴールドシュタイン著、日本経済新聞出版社、2009年1月刊行。

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関氏が翻訳に携わった約40冊の本は、「Booklog」上にて一覧できる。
https://booklog.jp/search?service_id=1&index=Books&keyword=%E9%96%A2%E7%BE%8E%E5%92%8C

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翻訳者は俳優のようなもの。
原書の良さを台無しにしないよう演じる

翻訳者は俳優のようなものだと思っています。原書という〝脚本〟に書いてある台詞を読むのが仕事ですが、読み方=演じ方によって観客が共感したり、しらけてしまったり、嫌悪したり、退屈したりするわけです。脚本なり原書なりの縛りの中で、それを変えずに自分がどう表現するかで、読者を惹きつけることができたりできなかったりする。そこに挑戦するのが、翻訳者のやりがいです。

私が尊敬する大先輩の翻訳者である村井章子さんは、「ダメな本を翻訳で良くすることはできないけれど、いい本を翻訳でダメにすることは簡単だ」とおっしゃっていました。どんなに脚本が素晴らしくても役者=訳者が大根だと、素晴らしい脚本が台無しになってしまいます。素晴らしい原書を台無しにしないことが、翻訳者の務めだと思います。

具体的に心掛けているのは、英語の原文を読んで私の頭に思い浮かんだイメージと、私の翻訳文を読んで読者の頭に思い浮かぶイメージが一致するようにすること。

文章を読むと頭の中に画像なり映像なりが立ち上がってきます。翻訳者が原書を読んで思い浮かべたものと、読者が思い浮かべるものがマッチしないと、うまく翻訳できていないということになりますね。自分が原書を読んで抱いたイメージと齟齬のない情景を読者に提供できるのが理想です。

でもそれには、2つの力が同時に必要です。まず英語を読んで思い浮かべたイメージが正しい、つまり英語がきちんと読めていること。そして、そのイメージを正確に日本語で表現できていること。この2つの力が同時にいつもうまく発揮できるとは限りません。日本語表現が思いつかなくて困ることはしょっちゅうです。自分の翻訳で2つがぴったり合ったと思える文章はそれほど多くはありません。

“Now or Never ?”は「いつやるか? いまでしょ!」

心掛けていることとしてはもう1つ、読者に著者の声が聞こえるように、あたかも著者が話しかけているように訳すということもありますね。そのために一番マッチした言葉を選ぶということです。

「いわゆる翻訳調が好き」とか、「西洋の雰囲気が文章にもそのまま残っている方が好き」という方もいらっしゃるかもしれませんが、私はなるべく「翻訳臭さ」をなくすことや、少しインパクトのある今風の表現を入れるようにしています。

例えば『FACTFULNESS(ファクトフルネス)』では、著者であるハンス・ロスリングの語り口を生かすように工夫しました。公衆衛生の専門家であるロスリングはTEDのスピーチでも人気で、話す内容はシリアスだけれども、少し早口のしゃべりも動作もコミカルなんですよ。若者に親しみやすい表現をしているし、権威に対して斜に構えたりする面もある。

彼らしいその語り口が聞こえてくるようにと思って、例えば“Now or Never ?”という一文は、林修さんの「いつやるか? いまでしょ!」と訳しました(笑)。読者が飽きないように読み進めてくれるよう、そういうフックになる言葉もちょいちょい入れるようにしています。

日本語は主語がない

日本語らしい日本語にするということにも気を付けています。『FACTFULNESS』の共訳者の上杉さんがおっしゃっていましたが、「最初から日本語で書かれていたら、どんな表現になっていたか?」と考えるわけです。

英語にはあるけれど、日本語にはないものはいくつかありますし、その逆もあります。「日本語には主語がない」と言われます。また、「私たち」や「彼ら」といった複数形の人称代名詞もあまり使いません。どういう文脈で使われているかで扱いは違ってきますけど、人称代名詞がなくても意味が通じるのであれば、あえて省いた方がスムーズに読めるところはたくさんあります。

逆に、英語の一人称は「I」しかありませんが、日本語にはたくさん一人称があります。「わたし」と「僕」では頭に浮かんでくる人のイメージがガラッと変わります。「俺」、「うち」、「わし」など、それぞれアイデンティティが違いますよね。しかも日本語は表記も多様で、「私」「わたし」「ワタシ」「あたし」「わたくし」では受ける印象が違います。「僕」もカタカナの「ボク」と、ひらがなの「ぼく」とではイメージが変わるでしょう。

よりよい表現を目指し、自分の中の引き出しを探って最善を尽くす

主語の使い方、文章の切り方、人称代名詞の使い方、時制、複数形など、自然な日本語にするためのポイントはいろいろあるということです。英語にあって日本語にないものはなるべく省略し、逆に日本語にあって英語にないものは付け加えたり。英語特有の表現をどう訳すかということも悩みどころです。

あらゆる表現をどう訳すか、毎日、毎秒、つまづいて、もがくことの連続です。これが正解というものはないので、よりよい表現を目指して自分の中の引き出しを探って最善を尽くすしかありません。

一連の文章の中で1つでもおかしな表現があれば、読者は混乱しますし、例えばページを繰って後戻りしたり、違和感を抱いたり、途中で読むのを止めたりといったことも起こるかもしれない。そういうことのないように、読み手がストレスなく本の世界に没頭できる、そんな翻訳を目指しています。

WEB限定コンテンツ
(2018.12.20 三鷹市の杏林大学 井の頭キャンパスにて取材)

text: Yoshie Kaneko
photo: Kazuhiro Shiraishi

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『FACTFULNESS――10の思い込みを乗り越え、データを基に世界を正しく見る習慣』(ハンス・ロスリング、オーラ・ロスリング、アンナ・ロスリング・ロンランド著、上杉周作、関美和訳、日経BP社)
上杉氏と関氏による共訳。全体の訳出を共有しつつ、前半を上杉氏、後半を関氏が担当した。

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関美和(せき・みわ)

1965年、福岡県生まれ。翻訳家。杏林大学外国語学部准教授。慶応義塾大学文学部・法学部卒業。電通、スミス・バーニー勤務の後、ハーバード・ビジネス・スクールでMBA取得。モルガン・スタンレー投資銀行を経てクレイ・フィンレイ投資顧問東京支店長を務める。また、アジア女子大学(バングラデシュ)支援財団の理事も務めている。

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